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2025年の振り返り。災害ボランティア

個人ブログをこうして更新するのは、実に1年半ぶりになる。

この間、僕が何をしていたかというと、

もちろん旅はしていたのだけれど、これまでの人生ほど日本全国を飛び回るようなエキサイティングな期間ではなかった。

しかし、自分自身の行いを俯瞰してみても決して誰にも恥じることのない月日を過ごしてきたと思う。

2024年1月1日。能登半島で最大震度7もの大地震が起き、僕は2月1日から現地に入り災害ボランティア活動に身を投じるようになった。

更に同年9月21日には、復旧の進む能登半島に1000年に一度とも言われる大雨が降り続いた。

その惨さに僕だけではなく、多くの仲間達が加速度を上げて能登への支援に駆けつけ続けた。

久しぶりの更新にして本年最後のブログは、そんな能登半島の災害についてと能登への想いを綴り、締めくくろうと思う。

目次

能登半島地震、発災直後

能登半島の一般ボランティア募集開始はこれまでの災害のときとは異なり、かなり遅かった。

先に書いてしまうと発災が2024年1月1日だったのだけれど、一般ボランテイアが受け入れられるようになったのは同年の1月27日からと記憶している。
(その間、少数だけの限られた応募はあったようだ)

災害ボランティアの経験がある人ならわかると思うのだけれど、被害のない安全地帯からニュースで報道される被災地の惨状を目に耳にすると、車に積めるだけの支援物資を詰め込んで1日でも早く被災地に向かいたいという衝動に駆られる。

しかし、能登の被災現場はそれを許しはしなかった。

「受け入れ態勢が整っていないので、ボランティさんはまだ来ないで下さい」というアナウンスだったのだ。

いても経ってもいられず、そのアナウンスを無視して現地入りした人がいるという話も結構聞いた。

僕はすぐに行ける準備はしていた反面、変に冷静で、

「いっても逆に迷惑になるなら、今はその時を待とう」という姿勢だった。これが実は、一般ボランティアとしては正解なのだと後々ちゃんと理解出来るようになったのだけれど・・・。

ただ、冷静さを欠いて現地入りする人の熱い気持ちもわかる。実際に被災して困っている人は別に行政の助けを待っているわけではなく発災初期の困窮状態から救いだしてくれるのならば、誰だって良いのだから。

中には「会社に被災地へボランティアに行くと言って有給申請してしまったから行かないわけにはいかない」「友人・知人らの前でボランティアに行く」と言って引くに引けなくなった、なんて人もいたであろうと予想している。

ともかく、被災地からの「個人の判断で被災現場に来ないで」という発信を無視して現地に駆けつけた人が一定数いたのは、紛れもない事実。

それが被災者さんの救いになったのもあれば、善意が完全に裏目に出て被災地に迷惑をかけてしまった人もいる。

ニュースでもやっていたけれど片道一車線が続く能登半島で、地震のあとで交互通行や、まだ道路が復旧しておらずにガタガタの道もあったし、道路上にも道路脇にもガラス片や釘などが散乱していた。そこで他県ナンバーの車が数台パンクして通行止めを引き起こしてしまったのだ。本末転倒・・・助けにいくつもりが、復旧を遅らせる結果となってしまったのだ。

これは実際に僕が2024年2月13日に穴水町で活動したときに被災者の方と話をしていたら、

「あー、いたいた!栃木ナンバーの車が道塞いでたわ。」と呆れていた。

報道やSNS内では『迷惑ボランティア』なんていう不名誉なワードまで付けられてしまっていた。

気持ちはわかるけれど、一般ボランティアはどんなに経験があろうともこらえて受け入れ開始を待たなくてはいけない。

かつての被災地を巡る旅

一方の僕はというと、一般ボランティアの募集を今か今かと待っている間に、募集開始のタイミングでどうにもならない事情と重なり、初日からの活動は断念せざろをえなくなった。

募集開始が1月27日だったのだけれど、翌日1月28日は亡き父の命日なので毎年その前後は故郷の宮城県に帰省をしていたからだ。

ただ、この帰省の折りに地元の友人らの協力を得ながらかつての被災地を訪れてみることにした。

2011年3月11日、東日本大震災

僕も被害は少ないけれど被災して、故郷では見慣れた景色や幼少の頃からのお気に入り風景がほぼ跡形も津波によって流されて消えてしまいショックを受けたし、友人も亡くした。

その後、何箇所か慰霊碑巡りもしたけれど直視出来ない現実もあった。何人も人が亡くなったその場所に、行きたくなかった。特別な理由も無しに行くものでもないと思う。

それが、能登へボランティア活動には入る前に、どうしても復興状況を自分の目で確かめたくなったのだ。

僕達はレンタカーを借りて被害の大きかった地域の一つ『気仙沼市』へと向かった。道中も慰霊碑を見たりしたけれど、気仙沼に新しく出来ていた復興祈念公園を訪れ高台からの景色を見たときに、僕は『復興は成された』のだと感じた。

気仙沼復興祈念公園に設置されている作品、『海へ』。僕も祈りのセイルから、黙祷を捧げた。


僕は被災された方々の心情は、解るつもりだ。

1〜2年では住まう地や見慣れた風景の中に発災から取り残された風景が、必ず残っている。それを見るたびに心が締め付けられて「行政が悪い」「国に見捨てられた」。そして、『神も仏も無い』とさえ感じやるせない気持ちになる。

僕も、そうだった。

だけど、この訪問のときで東日本大震災から約13年と10ヶ月。仙台市から気仙沼までの道中、重機を見ることも、立入禁止の赤いカラーコーンさえも僕は発見出来なかった。

真冬の平日で人通りは少なかったけれど市場や道の駅には他府県ナンバーの車が何台もあり、『観光』もされていた。

かつての被災地であるその街は、確かに生きていた。安堵と共に心には希望という光が灯った。

この、能登入りの前に故郷の被災跡を訪れた行動は後に能登半島で大きな意味を持つことになった。

そしてこのときの経験から2025年1月にも同じ行動をとり僕の出生地でもある石巻市、僕にとっての『グランドゼロ』である、

『門の脇小学校』と『大川小学校』跡をみてから、そのまま能登半島に向かい活動をした。

大川小学校。訪れた翌日に無ぐり合わせか、あの日に先生の言うことを聞かなかったことで生き残った女の子の知り合いから聞くことが出来た。真実は残酷。

ボランティア参加希望者の人数制限

能登半島の一般ボランティア募集初期は特殊で、ボランティア活動がしたい人は自家用車や交通機関で自由に飛び入り参加出来る従来のような形ではなかった。

参加希望者は石川県の災害対策ボランティア本部が運営するサイトから応募をするのだけれど、初期は七尾市・中能登町・能登町・穴水町、そして志賀町だったと記憶している。

各センター1日あたりの募集人数は40~50人くらいで、しかも自家用車ではなく県が手配し金沢駅や県庁から能登に点在する各センターまで送迎してくれるバス、『通称ボラバス』に乗り込んで現地へと向かうのだ。

これがまた大変で、その50人の応募枠を勝ち取る為に応募開始時間とともに日本中からアクセスが集中して参加権利の争奪戦となるのだ。本当に、一分で全ての応募枠は無くなっていた。

どんなに経験豊富だったり能登への熱い思いがあろうとも、応募枠の予約が取れなければ参加出来ない。平等だけれどどちょっと酷でもあった。

僕はと言うと、今だから言えるのだけれど最初の活動のときに社協のかたとコンタクトをとれるようになっていたので予約をしないで自由に飛び込み参加出来る場所を見つけていた。

ルールはもちろん大事だけれど、無理やり押しかけていた訳ではなく了承を得て受け入れてもらえるのなら被災地にとっては復旧が少しでもなるのは良いことだと思うんだ。

ボラバスといったら、最後のお見送りだ。センターのスタッフさんとそこ残るメンバーが、バスで帰る仲間たちが見えなくなるまで手を振り続けるという盛大なイベントが、毎回繰り広げられる。これを知らない初参加の人は、感激のあまり泣いたりする。

能登半島での災害ボランティア活動開始

2月2日。僕は石川県の『志賀町』という今回の地震で被害の大きかった町で活動に入っていた。

災害ボランテイアというのは集まった人数全員でわーっと活動することはまず稀で、大体は何チームかに分けられてそのチームで1日にできるだけの作業をすることになる。大体9:00集合でお昼を挟んで15:00までの活動、といったスケジュールだ。
(「短い」と感じるだろうけれど、様々な年代の人が参加するので、これくらいが良いのだ)

各チームで1人リーダーを選ぶようになるのだけれど、僕は被災地入りしたら自分からリーダーに名乗り出るようにしている。これまで他の被災地で活動してきたという経験もあるし、それよりも1日で得られる情報量と見え方に差が出るからだ。

『出る杭打たれる』ではないが、自らリーダーに名乗り出ると悪印象で迎えられることのほうが多いと思う。何度も顔を合わせている人が混ざっているなら問題は生じないのだけれど、活動開始最序盤・ほぼ全員初対面でこの行為は一般的にはに勇気がいる行動なのだろう。

でも、僕は知っているのだ。僕の指揮と気配り一つで、その日の活動が『単なる作業』になるのか、それとも『被災なされた方々の心の救済』になれるのかを。

僕は、今でも決して作業効率の優れたボランティアではない。

僕の最大のアドバンテージは『元被災者であること』だ。

水道から水が出る、スイッチひとつで電気が付いたり消えたりする、食べ物に溢れていて足りなければ近所に買い物に行く、ガソリンが減っているなら給油する、寒ければ暖房をつけ、暑ければ冷房を入れる。トイレに行くのもストレスもなく1回ごとに水を流す。1日の汚れをお風呂で流し、温かい布団の中で1日を振り返りながら眠りに落ちる。

そんな当たり前が急に当たり前ではなくなり普段の何気ない生活がどんなに幸せであったかを思い知らされる、『災害』。

それは、経験した人にしかわからない。怒りのやり場がない。明日からのことが不安で眠くもならない。でも腹は減る、喉は渇く。我慢の限界でトイレに行くと鼻をつまみ顔を背けたくなる中でも我慢するしかない。現代人は冷暖房がないと生命維持に関わる、お風呂って2日入らないと頭も体も痒くなって自分がとても惨めな存在に思えてくる。

僕は、それを知っている。

だからその志賀町の活動初日から、ともかくお邪魔させてもらう被災者さんに声をかけるように心がけた。

そして何人もの被災者さんを、泣かせた。

泣いてほしかったからだ。泣くのを我慢して、泣かないまま日常に戻っていくと泣きどころを失ってしまう。これはいづれ心の痼となる。だから、笑わせたほうが良いと感じた人は笑わせて、それどころじゃなさそうと感じた人には共感という労りを持って、その人が泣くように会話を持っていっている。

特に、直前まで故郷宮城県の『元被災地』を見てきたことが、ここで効いた。

「僕は宮城県の出身です。能登に来る前に久しぶりに故郷の被災地に行きましたが、13年経って今では探さない限り災害の爪痕は見つけられないくらいに復興を果たされてました。だから、元被災者の僕が断言します。能登も、時間はかかるけれど、必ず復興します。どうか元気でいて、新しくなっていく能登を見守って下さい」、と。

きっと、言いたいことは想いは伝わったと思う。僕なりの経験からくる活動で、今後もブレることは、無い。

作業は作業で指揮を執りながらやってはいたのだけれど、そちらは幸運にも異常に慣れた人がいたので安心して任せられた。その人とはとても良い縁で、今でも付き合いがあるし最も信頼している仲間の一人なのだ。

発災から初期、僕は千里浜で車中泊して志賀町のボランティアに通う日々を過ごしていた。

輪島へ

能登の被災地といったら真っ先に名前が出るのが『輪島』だろう。

特に、有名な輪島の朝市が地震による火災で全焼してしまったニュースはかつてその地を訪れた僕にも、もちろんそこで暮らす人々に深い悲しみ与えてしまった。

輪島はその被害の大きさから一般ボランティアの募集が開始されるのも他所よりも遅かった。
(言い方が不謹慎だけれどボランティア仲間の間でも初期の輪島は『花形』で、参加して来たと話すと「どうでした?」とみんなに聞かれるような状態だった。)

僕が最初に輪島の活動に参加したのは、輪島のボランティアセンター(輪島は『たすけあいセンター』と名乗っている)が立ち上がって間もない頃だった。

到着後バスの中で社協スタッフさんによるオリエンテーションが始まり「今日は輪島の朝市のニーズがあります。この中から10人選びます。」とアナウンスがされて、車内が本当にざわついた。

挙手制で、手を上げた人の中から必要人数を前列から順にではなくランダムで選ばれていくようになった。

僕はこういうときに、まず9割以上の確率で選んでもらえている。前列に座っていて、目も燃えているのだと思う。

案の定、「そこの青い人!」と選んでもらえた。(元)輪島市社協のTさんにはこのときのことからも大変感謝をしている。

リーダーはもちろん僕。「今後も継続して輪島にボランティアに来たいのでリーダーをやらせて欲しい」と願い出たからだ。

依頼の内容は伏せるが、この日の活動では大きな気づきがあった。

今思い返せば、その日の依頼主さんは平然としているようで頭の中はまだパニックになっていたのだと思う。

家の鍵を忘れてきたり、用意してくれているハズの段ボールが全く数が足りなかったり、他人から見たらどうでもよいような細かいことを妙に気にしていた。これではその日の内に作業が終わらないと、チームメンバーの中には怒っている人もいたし、僕も正直イライラしていた。

でもその中に、岐阜県から来ているボランティア参加2回目という女の子がいた。装備も本当に着の身着のまま来たという感じでチームメンバーの中でも浮いていたのだけれど、その女の子は午後からはずっと依頼者さんの隣に居て、作業としてはそんなに大きいなことはしていないけれど、ともかくその日の終了時間まで依頼者さんと他愛もない話を続けていた。

最後、完了挨拶のときだった。

無事に時間内ギリギリで無茶苦茶な作業をやりきって、僕は依頼主さんから丁寧にお礼を言われた。どこから来てくれたのか、名前はなんというのかなど聞かれ応対したがそこでもう一人、その女の子もお礼を言われた。

「〇◯ちゃんは、岐阜からだもんね〜♪」

ちゃん付け・・・

これが如何にすごいことなのか、伝わるだろうか。

ほんの3時間くらい。ただただ被災者さんと普通の会話をしたことで、その日10人もいたチームメンバーの中で一番被災者さんの心を開くことが出来たのだ。これまで数多くの被災地で活動をしてきたような屈強なメンバーを差し置いて、ボランティア参加回数2回目の女の子が、だ。

この話は、今でもボランティア仲間にすることがある。

災害ボランティアの1チームには作業効率が良かったり、正しいリーダーシップを取れる人は確かに必要だ。

だけどそれと同じくらい、本来はそれ以上に、被災者さんに寄り添える人が必要なのだ。みんなそれぞれ真心があって被災地に来てくれるのだからその心は持ち合わせているが現場に着いて活動が始まると、作業に集中しすぎて被災者さんを置いてけぼりにすることが多々ある。

僕はこれを、『変なスイッチが入る』と表現している。

経験の浅い人、特に初参加メンバーにはよく話して、「経験を積む中で活動の目的が作業にすり替わりそうになるときがくるかもしれないけれど、困っている人のお手伝いをしたくて被災地に来たという初心を忘れないで」と伝えている。

「災害ボランティアは、誰にでも出来る」

聞き慣れた言葉だろうけれど、これは本当なのだ。

女性でも、高齢でも、非力でも、中には盲目の若者まで来てくれた。

「みんなで力を合わせて被災された方のお手伝いをしたい」という気持ちが同じなら、役に立たない人など、いない。

能登豪雨。ボランティアみんなの行動変化

志賀町、穴水、門前、輪島と活動場所を変えていくなかで、2024年の8月頃には、能登の災害ボランティアは実は終了予定センターが多数あった。活動日も一週間で全日から週末だけになるセンターも出てきていた。

なのでその頃仲間内では「ボランティアの募集がなくなっても、観光に来て復興をある程度見届けたいよね」といった終了ムードのなかでこういった明るい会話があちらこちらでされていた。

そんなときに起きた、起きてしまったのが9月21日の『能登豪雨』だった。

僕はその日は能登におらず仲間から送られてくる被害状況LINEに、ただただ能登の方々の無事と、雨が止むことを祈っていた。

しかし多くの人の切実な祈りは、叶わなかった。

その被害はあまりにも酷かった。水害とは、局所的には地震よりもよっぽど悲惨だ。

2024年9月21日当日にボランティア仲間内に回ってきた輪島市宅田町の様子。このあと、更に水位は上がり完成したばかりの仮設住宅は完全に床上まで浸水してしまった。


輪島市のたすけあいセンターすぐ近くの宅田町仮設住宅はその年の夏に完成したばかりで、窮屈な避難所生活からようやく移り住めることになった方々が暮らしていたのだけれど、それがわずか1~2ヶ月で、豪雨による床上浸水。備え付けの家電はともかく、新しく買い直した家電製品と、なにより被災した自宅から狭い仮設住宅に選りすぐりで運んでこられたのであろう大切な家財が、無惨にもそのほとんどを泥水に飲まれてしまったのだ。

国道、県道沿いには積み上げられた土砂と流木の山が続き、家は流されるか残っていても床下いっぱいに土砂が入り込んでいてとても人が住める状態ではない。そして、電気ガス水道、インターネットや道路といったインフラ。1月の地震からようやく復旧が終わりかけていた能登に、再び非日常が戻ってしまった。

能登の方々がもちろん一番悲しいし、やるせない。

しかし僕達災害ボランティアも、そごく悔しかった。1月からずっと復旧していく能登を見てきて、そこに暮らす人々に笑顔が戻って行く様子だってとても近いところで見させていただいてきたのだ。

以前地震被害でお邪魔したお宅に今度は水害で再び訪れる。これがどんなに心が締め付けられるものか、一体どれだけの人に理解してもらえるだろうか。

しかし、能登の人々が諦めなかったように僕達も諦めたりはしなかった。

『9月末で活動は終わり』と収束モードだった一般ボランティアは、この水害によって継続支援どころか加速度を上げてより能登への支援に入るようになった。水害ボランティアの募集開始は9月25日、平日の水曜日からだったのだけれど、集合場所には見慣れた顔ぶれが真剣な表情で集まっていたのだ。

僕もそうだ。年に3回ほどの母との面会の機会をキャンセルして、能登に行くことを選んだ。認知症で会話も出来なくなっていたけれど、僕のこの行動変化を、母なら嬉しく思ってくれただろう。

多重被災地のリアル

世間一般的には「地震のあとで洪水にまで遭って、能登半島大変ね」くらいなものだったろう。

別に責めもしないし、僕も自分自身が東日本で被災していなかったらその感覚のまま日常を過ごしていたに違いない。

現実問題、これまで地震や豪雨の被災地には行った事はあるけれど1年の内に2回も大災害に遭った地域というのは、僕は聞いたことがないし、その現実はその地に住まう人々をことさら苦しめたことは言うまでもない。

被害はボランティアセンターを運営する社会福祉協議会の主要スタッフさんのお家にまで及び、出勤どころかボランティアセンターを開けるどころの話ではなく、その非常事態に石川県の職員さんが臨時で取り仕切りに来たほどだ。

町も、自然も、人も、ボロボロだった。

やっと地震の被害から立ち直り始めていたのに、これは能登に居て何度も聞く言葉だが、

「水害は余計だった」

本当に、余計だった。人々の気力まで、流していってしまった。

テレビでやっていた「泣きっ面に蜂」なんて安い言葉では言い表せない。そんな言葉を当てはめようと考えた奴は安全圏から人の気を引く言葉を選ぶより、被災地に来て見て、感じた言葉を発信しろと言いたい。

ともかく、悲惨そのもの。「頑張ってください」なんてそんな言葉をかける事はできない位、酷かった。

地震でも水害でも甚大な被害が出た町野町。あまりの悲惨さに道中のバス車内からはすすり泣きが聞こえてくるほどだった。でもみんな、気合の入り方が違かった。再度の被災に遭ってしまった能登の方々の助けになりたいと、僕らは静かな力に満ちていた。


能登の方々は、再び泣いた。

けれど僕達ボランティアも、悔しくて泣いた。

1月からずっと微力ながらもお手伝いして、復旧していく能登を見てきた。それが、振り出しどころか見るからに被害が拡大しているのだ。自分達がやってきたことはなんだったんだと、復旧に当たり続けてくれていた業者さん達も感じただろう。

でも、僕達は諦めなかった。

災害ボランティアというのは、基本的には『住家』、人が住まう家から優先してお手伝いをしていく。

しかしこの水害による住宅床下や側溝の泥出し作業は年内どころか、2025年の後半になっても依頼が途絶えなかった。

地震の被害はもちろん大きいけれど、水害というのは世間の認識よりもよっぽど大変なのだということを、もっと多くの人にわかって頂いて、有事の際は動ける人が被災地に駆けつけられるような社会になっていって欲しいと切に願う。

活動の変化。それでも、能登へ。

2025年に入ってからは、各ボランティアセンターは縮小傾向に入った。

閉鎖したセンターや、不定期募集になったセンター、民間団体に任せることになった地域もある。

まず一週間のうち活動募集がある日数が金・土・日くらいに定着したのと、それに伴い送迎してくれるバスの本数と乗車人数がかなり絞られたのだ。

仲間内でも、これを一区切りとして姿を見せなくなった人もいる。
(1年間も、本当にありがとう)

そしてもうこの頃には、珠洲市のボランティアセンター以外は、自家用車で直接参加ができる『現地集合型』の受け入れ体制も出来始め、能登のボランティアの活動スタイルに変化が出てきていた。

雪が積もろうとも、みんな県外から能登に来る。

僕も2025年にはいってからは、ほとんどボラバスに乗ることは無くなっており自家用車で集合するようになった。

日が立つほどにみんんあが同じような行動をとるようになり、『現地組』、『バス組』なんて呼ばれて分けられるようになった。

ただ、この現地集合は疲れるしガソリン代もかかるのだけれど、最大のメリットがあった。

言うまでもなく、活動前後の時間が、自由なことだ。集合時間前や活動終了後に、観光したり外食したりできるのだ。

僕はそっちのほうが性に合っていて能登の隠れ名所を発見したり、夏には能登の海に潜って水中の様子とそこに生息する生き物を発信することができた。

2026年以降、能登現地でのボランティア活動が出来なくなろうとも、離れていてものとを想い応援するための素材の収集をすることが出来た。

九州豪雨と静岡の竜巻

2025年も、日本列島各地では多くの自然災害が発生した。

被害規模の大小に関わらず、被災地となった地域とそこに住まう方々にとっては

僕は今、災害ボランティア活動をするうえで心がけていることがある。それは、

災害が発生して自分が向かえる範囲内なら、なるべく早く駆けつける

ということだ。これはいくつか理由がある。

一つは、被災した地域の人はとても心細い思いをしている。そこに1日でも早く駆けつけて、

「皆さんの暮らしているこの場所が災害に遭ったと聞いたのでお手伝いしに京都から来ました」

と声を掛けるようにしている。これは、決して自己アピールではない。

「自分たちを心配して遠くから来てくれる人がいる」。これは、その人とボランティアセンターを運営する地元の人に、勇気を与えられるのだ。僕が実際東日本地震のときにそうだったから、気持ちがわかるのだ。

だから、「どこから来たんですか」といわれたら、堂々と言うようにしているよ。

もう一つは、地元のボランティア参加者さんとお話をするためだ。

これは、能登で得た教訓でもあり、今年の九州豪雨で実際に熊本で体現も出来た。

災害ボランティアは、早期で収束することは、まず無い。数カ月は続く。だけれど、京都に住まう僕には、通いたい気持ちはあっても現実的には継続支援はかなり厳しい。

出来るのは、貴重な参加回数の中で、どれだけ爪痕を残せるか、だ。決して自分が目立ちたいという意味ではない。

輪島市助け合いセンターのKさんがよく行っていた。

「最後に残るのは、地元ボランティアです」

その通りだ。そこに住まう人が、その地域で困っている人を助ける事ができるのが、現実的にも将来的にも良いことだ。

だから、熊本では地元ボランティアさんに僕の作業スキルを惜しみなく見せて教えたし、

「慣れてきても作業効率よりも被災者さんの力になりたいという最初の気持ちをいつも忘れないで下さい」

と伝え続けた。

ちゃんと、届いたと感じた。何人かの初参加メンバーは、きっと僕が去ったそのあとも活動に継続して参加してくれたであろうと、僕は信じられる。

熊本市西区の水害ボランティアへ。指揮は概ね好評だったが、記念に熊本にちなんでワンピースのアラバスタポーズで集合写真を撮ろうと提案したのは、大変不評だった。

静岡県牧之原市では今年9月、日本観測史上最大の竜巻が発生した。

静岡県なら、京都から無理なく行けるので初期段階向かった。

竜巻被害というのは酷なもので、広域ではなくほぼ竜巻の進行方向にだけ大きな被害が出るのだと自分の目で知ることになった。

直撃を受けた住宅は屋内まであらゆる物が破壊され尽くしているのに対して、ほんの数メートル離れた家は全く無傷だったりしている。

そこから、被災されたご家庭への声のかけ方に最新の注意を払った。

「なんで内だけこんな目に・・・」と思っているだろうと感じたからだ。不公平が、顕著だったのだ。

牧之原市の竜巻進路。木が、捻れて避けている。地震とも水害ともまた違う被害状況だった。

災害ボランティアから、復興ボランティアへ

2025年12月下旬。

今の能登半島は一体どうなっているのだろうか。

まず、ボランティアセンターが存続しているのは、珠洲市だけだ。

輪島市たすけあいセンターは11月に終わり、志賀町も12月でその役目を終えた。今後も不定期に募集がかかり、少人数での活動が2026年の中頃までは続くだろう。

あとは主に民間団体や数人のローカルなチームが活動を継続している。

そして、僕達一般ボランティアはというと、

お家の片付け・ブロック塀解体撤去・側溝の泥出しといった活動から離れ、

農家さんのお手伝い・地域イベントへの参加・伝統工芸の存続支援等、様々だ。

僕も農業ボランティアを経験。草刈り機やスパイダーといった農具も使えるようになった。
お花を植える活動もした。似合わない。


世間がイメージしている、「災害ボランティア」とは違う活動をしている。

「そんなのボランティアがすることじゃない」と言う人も、きっといるだろう。

しかしこれは、とても大切なこと。

元々過疎化が進んでいた能登半島は、2度の被災で人口が減り、復旧不可能な事業者らは債権を諦めたり、倒産してしまうケースまである。

「能登って地震があったところでしょ?」と、観光をためらうという人の声まで聞く。

そこを、何とか変えたいという気持ちで各々が活動をしている。

僕も、こと災害ボランティアにおいては脳筋と化すのだけれど、今は花を植えたり可愛い活動をしている。

これからの能登、ずっと能登

能登半島。

発災前から元々好きで何度も訪れていたけれど、

此度の災害ボランテイア活動の中で、「大好き」では片付けられない、本当に大切な場所になった。

それは僕だけでなく、他の仲間たちも同じだ。

能登に今も通うボランティアメンバーは、昨年から数えて、活動日数は100回超えが当たり前となっている。

おかしい、と思うだろう。本当に、信じられないことに石川県内からだけではなく、近隣の福井・富山のほかに、

福島県や群馬県、大阪、愛知とか、枚挙に暇が無いくらい多くの他府県から常連というか、

能登の社会福祉協議会が募集するボランティア活動は、2026年の中頃には全てが閉じていると思う。

でも、社協を通じた活動だけが、ボランティアではない。

能登の、そこに住まう人々とつながり続けること、離れていてものとを想い続けることが、本当の能登ボランテイアナノではないかと僕たちは本気で考えている。

僕も、あと何回実際に能登にいって活動出来るのかはわからない。けれど、この2年間で立派な能登フリークに慣れたと自負している。

本ブログでも、SNSでも、これからも能登の良いところを発信していく。

何度訪れても新たな発見があり、何度でも着たくなる能登半島。

多くの人にその魅力が知られ、そこに住まう能登人の素朴さ優しさが伝わり愛される地となり復興が成されることを、心から願っています。

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